私と終戦記念日〜戦後70年〜
my dear grandpa and 3-yaer-old Keiko
私は戦争を体験していない。
けれど、私は戦争を知らない訳にはいかない。
私の父方の祖父母は、昭和13年頃それぞれ満州へ渡り、現地で出会い結婚。
私の父は70年前の昭和20年に生まれた。終戦の年である。
祖父は終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜となり、ソ連軍によって満州からシベリアに労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と強制労働を強いられた。
その当時、祖母は満足な食事も取れなかったため、オッパイも出ず、生まれて間もない父は「干からびたカエル」状態。
祖母は日本へ帰国しようとする際、周囲の方々に『乳飲み子(父)は連れて行くのは大変なんだから置いていけ』と言われたが、それでも手放さず父と父の兄姉3人を連れ、日本へ戻った。
その後、祖父も何とか生き延び日本へ戻り、家族と再会した。
当時の話をしない祖父に変わり、祖母が、私の母に何度となくそう話をしていたそう。
それを私は母から大人になってから聞き知る。
『おばあちゃんがお父さんを頑張って満州から日本に連れて帰ってなかったら、私たちって生まれてなかったんだね』
お兄ちゃんや妹とたまにしみじみ話をする。
私のおじいちゃんは漬物屋「青三」の創業者。
盛岡市仙北町は昔、青物町と呼ばれていた。
おじいちゃんの名前は、三二郎。
青物町の「青」と三二郎の「三」を取って「青三」と名付けたそう。
青物町で創業し、私の幼少期には、私の実家の津志田へ工場を移転し、今は紫波町にある。
小さい頃(保育園年長さんから中学生の頃まで)は、おじいちゃんと父、おじさんの朝食をカゴに入れて届けるのが、兄と妹と分担しながらの毎朝の仕事だった。
漬物ばかり食べて育った。
『あなたのおじいさんには本当にお世話になったのよ。この辺をリアカーで回ってくれて、商品にならないきゅうりを買ってくれてね。応援してるから頑張るんだよ。』
津志田や三本柳など見前地区を歩いていると、農家のおばあちゃん達がそんな話をしてくれる。
おじいちゃんは、生前、お盆とお正月には必ず、私たちたくさんの従兄弟をみんな集めて温泉などによく連れて行ってくれた。
人を喜ばせることが本当に大好きだった。
たくさんの方々に支えられ応援してくださる皆さんがあって、今の私があること、心から感謝しています。
そして、おじいちゃん・おばあちゃんなくして今の私はないということも。
戦後70年。父70歳。祖父生誕100年。
初心と感謝の気持ちを忘れずにこれからも一歩一歩前に進んでいきたい。
そして、私もまた自分の子や孫にこの話を伝えていかねばいけない。
写真は、津志田にあった頃の青三商店前にて。
保育園の入園式の日の帰りに大好きなおじいちゃんとパシャリ。
その当時から赤やピンクが大好きでした。そしてオサゲ(^^)